源氏物語ゆかりのお菓子 (後編)


糖芸菓子でみる名場面
 お菓子の芸術と言える糖芸菓子。京都の染織・菓子図案家である稲垣華雪(1903〜1989年)の菓子図案「菓子考 源氏五十四帖」をもとに作られた五帖を物語の背景とともに紹介します。

花宴(第八巻)

 破滅へと走る 若い恋の過ち
 20歳となった光源氏は、宮中で行なわれた桜花の宴の夜に偶然、朧月夜(おぼろづきよ)と出会います。そして、互いの扇を交換し、それを目印として再会を約束します。そのとき、彼が手にしたのは、月が描かれた衵扇(あこめおうぎ:女性が正装時に持つ、飾りひものついた扇)でした。1ヶ月後、朧月夜の父である右大臣家で催された弓の競技会に参加した光源氏は、扇を頼りに再会を果たすのでした。

 この菓子は、桜の花、衵扇、弓の3点を組み合わせることで、「花宴(はなのえん)」の巻で繰り広げられる光源氏と朧月夜との恋模様を象徴的に物語っています。

 時の東宮(皇太子、後の朱雀帝)に入内する予定であった朧月夜との許されない恋は、やがて光源氏の官職はく奪、そして須磨下向をもたらすことにもなります。それでも光源氏は、後々まで彼女への思いを抱きつづけるのでした。朧月夜とは、光源氏の心を深く占めていたかけがえのない女性のひとりだったようです。
 若さゆえの刹那(せつな)的な恋の過ち。破滅へと向かう美しい2人を描く、短いながらも華やかな巻です。

蛍(第二十五巻)

 優美に舞う ホタル涼しげ
 舞うホタル。池の水を表す渦と鮮やかに咲く菖蒲(アヤメ)が、涼しげな季節感を醸し出しています。

 5月、光源氏の大邸宅・六条院の夏の町が舞台です。

 光源氏は、亡き夕顔の子・玉鬘(たまかずら)を実の娘として引き取り、夏の町の西の対(たい)に住まわせます。そこに、彼女の噂を聞きつけて、たくさんの求婚者たちが現われます。その中の一人が、光源氏の異母弟である兵部卿宮(蛍宮)です。

 訪れた蛍宮の恋心をかきたてるために、あらかじめ捕まえておいたホタルを室内に放ち、おぼろに映し出される玉鬘の姿を見せつけたのは、光源氏のみごとな演出でした。一方で、源氏自身も、物語論にかこつけて娘であるはずの玉鬘に言い寄ったりもするのでした。父としてふるまいつつも、ひとりの男としての思いも抑えきれない、30代も半ばをすぎた“中年”光源氏の隠微な欲望が、しかしけっして優美さを失うことなく語られています。

 ホタルの光と、それに照らされて浮かびあがる玉鬘の姿。読者にとっても、とても印象深い情景として深く心に刻まれることでしょう。

藤袴(第三十巻)

 想い込め 花に託した恋心
 実父・内大臣(かつての頭の中将)との対面を果たした玉鬘は、光源氏から冷泉帝後宮への出仕を促されると同時に、これまで以上にあらわに恋情を示され、思い悩みます。そんな彼女の前に、源氏の息子・夕霧が現われます。そして、これまで姉と思っていた玉鬘が、実はそうではなかった(いとこであった)ことを知り、思わず恋心を訴えるのでした。このとき、2人は祖母にあたる亡き大宮の喪に服していました。

 薄い鈍色(にびいろ)の喪服を着た玉鬘は、美しさがいっそう引き立ちます。夕霧は藤袴の花とともに、「同じ大宮の孫として、喪服を着て悲しんでいる私に少しでいいですから、いとおしいと言ってください」と歌を詠みかけます。当時は喪服のことを藤衣(ふじごろも)と言いましたが、和歌にも詠まれた「藤袴」はその意味を響かせています。また、藤は紫色を連想させますが、「紫のゆかり」という言葉もあるように、藤そして紫は血のつながりを表わします。夕霧は、いとこ同士これからも仲良くして下さい、という想いを込めたのでしょう。

 この菓子には、藤袴の花のほかに、“あふひ(逢う日)”=葵(あおい)の葉も見えます。玉鬘はいったいだれと逢う(結婚する)ことになるのか。そして、求婚者たちの思いは、はたして遂げられるのか。そうした興味を抱く読者は、続く「真木柱(まきばしら)」の巻で予想外の展開を知ることになるのでした。

横笛(第三十七巻)

 世代交代告げる 形見の笛
 光源氏の正妻である女三の宮と密通し、不義の子(薫)をなした柏木は、わが子と対面することもないまま死んでしまいました。それから1年、物語は柏木の一周忌法要で幕を開けます。

 ある秋の夕暮れ、夕霧は親友であった亡き柏木の妻・落葉(おちば)の宮とその母・一条御息所を見舞います。そして、そこで柏木遺愛の横笛を譲られるのでした。しかし、その夜、夕霧の夢に現われた柏木は、笛を伝えたい人は別にいることを告げます。夕霧からその話を聞いた光源氏は、自分が預かるべき訳があると言って、横笛を受け取ります。彼は、我が子として育てられている薫が、実は柏木の唯一の忘れ形見であることを知っていたのです。だからこそ、将来、薫にこの笛を伝えようと考えたのでしょう。

 ときに光源氏49歳。なお若々しい美しさを失わない源氏ですが、しかし物語の時間は確実に流れていきます。横笛が父・柏木から子の薫へと受け継がれていくように、物語の主人公もいよいよ世代交代の時期を迎えようとしています。光源氏の物語は、第四十一巻の「幻」の巻でいったん幕を下ろすことになります。

 糖芸菓子では横笛のほか、菊や桔梗(キキョウ)、あるいは薄(ススキ)を描き、横笛が譲り渡された秋の風情を表現しています。そこに、長寿を象徴し、「待つ」の掛詞にもなる松を加えることで、この物語が横笛を譲られるはずの薫の再登場を待って、なお続いていくことを暗示しているのかもしれません。さすがに、ちょっとうがちすぎでしょうか。

浮舟(第五十一巻)

 厳しい身分差示す 苦い現実
 匂宮(におうみや)が浮舟と小舟でひそかに宇治川の対岸へと渡る風景が、シンボリックに造型されています。

 薫によって宇治に隠された浮舟のもとに、こっそり通い出す匂宮。2人の男のあいだで苦しむ浮舟は、しかし匂宮に誘われるままに、2人だけの時間を過ごすべく川を渡るのでした。けっして薫が嫌いなわけではないものの、自覚のないままに情熱的な匂宮に心も体も傾いているようです。

 菓子では、小舟と川波、そして川の中ほどにあった「橘の小島」とそこに生える橘の実が表現されています。橘は古代より永遠性と神秘性を持つ樹木として尊ばれており、舟の中で匂宮は「あなたへの愛は永遠だ」という意味の和歌を詠みます。それに対して、浮舟は、橘とは対照的に、水に浮く小舟=「浮舟」のような我が身の不安定さ、これからどうなるかわからない不安を嘆く歌で返します。彼女の名前の由来ともなった和歌です。

 さて、対岸で朝を迎えた際、匂宮は浮舟に洗顔の手伝いをさせます。それは本来、周囲に仕える女房がすべきことです。つまり、匂宮にとってどれほど愛情が深くとも、浮舟はあくまでも女房程度の身分の女にすぎなかったのです。実は、浮舟の母は八の宮の「召人」(俗に言う「お手つき女房」)として彼女を生み、そして見捨てられたという経験の持ち主でした。だからこそ、娘の浮舟にだけはもっと幸せな人生を歩んでほしいと強く望んでいたのですが、身分の違いはあまりに大きく浮舟にのしかかってきてしまうようです。「この浮舟ぞゆくへ知られぬ」という浮舟の歌の中の言葉が思い返されます。

 このように、この物語は男女の恋愛の背後にある厳しい現実をも確かなまなざしで描いているのでした。そして、“甘い”菓子にひそむ“苦い”物語世界は、しかしだからこそ深みのある味わいとして、私たちの舌と心とをとらえて離さないにちがいありません。

情報掲載日:2008.10.14